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田中一村 タナカ イッソンの美術品買取情報

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田中一村

1908年(明治41年)、栃木県下都賀郡栃木町(現・栃木市)に6人兄弟の長男として生まれる。父は彫刻家の田中彌吉(号は稲村)。若くして南画(水墨画)に才能を発揮し「神童」と呼ばれ、7歳の時には児童画展で受賞(天皇賞、もしくは文部大臣賞)。また10代ですでに蕪村や木米などを擬した南画を自在に描き得た。

「大正15年版全国美術家名鑑」には田中米邨(たなかべいそん)の名で登録された。 1926年、東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学。 同期に東山魁夷、橋本明治らがいる。しかし、自らと父の発病により同年6月に中退。超之謙や呉昌碩風の南画を描いて一家の生計を立てる。23歳の時、南画を離れて自らの心のままに描いた日本画「蕗の薹とメダカの図」は後援者には受け入れられなかった。

1947年、「白い花」が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選。このとき初めて一村と名乗る。しかし一村は川端と意見が合わず、青龍社からも離れる。その後、1953年・1954年に第9回・第10回日展、1957年・1958年に第42回・第43回院展に出品するが落選、中央画壇への絶望を深める。1955年の西日本へのスケッチ旅行が転機となり、奄美への移住を決意する。1958年、奄美大島に渡り大島紬の染色工で生計を立て絵を描き始める。だが、奄美に渡った後も中央画壇には認められぬまま、無名に近い存在で個展も実現しなかった。墓所は栃木市の満福寺。没後に南日本新聞やNHKの「日曜美術館」の紹介でその独特の画風が注目を集め、全国巡回展が開催され、一躍脚光を浴びる。

南を目指したことから、日本のゴーギャンなどと呼ばれることもある。鹿児島県は奄美大島北部・笠利町(現・奄美市)の旧空港跡地にある「奄美パーク」の一角に「田中一村記念美術館」を2001年オープンした(館長宮崎緑)。生誕100年にあたる2008年には、奈良県高市郡明日香村の奈良県立万葉文化館[1](館長中西進)で「生誕100年記念特別展 田中一村展―原初へのまなざし―」が開催された。毎年9月11日の命日に「一村忌」が「一村終焉の家」で行われている。一村の絵『奄美の杜』は黒糖焼酎のラベルにもなっている。

●初期  1908年から1938年までの作品
・白梅
・牡丹図
・倣蕪米
・倣聾米
・倣木米
・倣鐡齋
・農村春景
・蕗の薹とメダカの図、ほか

●千葉寺時代  1938年に千葉に移り、1958年奄美大島に行くまでの作品。
・白い花(1947:青龍社展入選作)
・花と軍鶏(1953:襖絵)
・能登四十八種薬草図(1955:やわらぎの郷・聖徳太子殿天井絵)
・千葉寺の春の作品シリーズ
・ザクロ図
・室戸岬、九里峡、由布風景、
・ニンドウにオナガ(1956:奄美時代の絵を予感させる明るさと伸びやかさ)

●奄美時代  1958年奄美大島に移った後1977年没までの作品
・素描シリーズ
・花と鳥
・ダチュラとアカショウビン
・「奄美の杜(もり)」シリーズ
・アダンの海辺
・高倉のある春景
・花と蝶、花と蛾、ほか

(参考出展:wikipedia)

1908 栃木県に生まれる
1926 東京市芝区の芝中学校を卒業する
1926 東京美術学校日本画科に入学したが同年6月に中退
1938 千葉に暮らす
1947 川端龍子主催の青龍展に入選
1955 西日本をスケッチ旅行して回る
1958 奄美大島に渡り大島紬の染色工で生計を立て絵を描き始める
1977 9月11日没 享年69
2001 奄美に田中一村記念美術館が開館

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