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作家・作品紹介

「濁手」の美しき白 酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん) 前編

有田焼

 有田焼は今から400年程前1616年に豊臣秀吉が朝鮮から連れてきた陶工(李参平)が現在の佐賀県に良質な磁器土を見つけたことから始まります。生活でよく目に触れる磁器とは陶石を焼いた石もので、ガラス質を多く含む焼物になります。落として割れた時にパリンと音がしますよね。ガラス質を多く含んでいるからです。有田焼は、図案師(デザイナー)、ろくろ・成形の職人、下絵付け(染付等)の職人、上絵付け(色絵)の職人、窯の職人とそれぞれ担当が決められ分業で製造している窯が多くあります。作品・製品により販売ルートが分かれ百貨店の個展や家庭に行き渡っています。一般的に作家一人で制作した美術品としての作品は「作家物」、分業で制作された製品は「窯物」と呼ばれています。

酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん)

柿右衛門様式の特徴

 有田焼が確立されたその約40年後に柿右衛門様式は1660年代から頃から生産が始まったとされています。元々、1640年代頃から伊万里焼が伊万里港を通じて東南アジアを中心とした貿易で輸出されていました。1970年代頃からヨーロッパを中心としたリクエストに応えるため柿右衛門様式が確立されました。柿右衛門様式の特徴は乳白色の地肌、いわゆる「濁手」に赤絵を中心とした色絵に黄、緑、青、金などが用いられています。日本的な花鳥図等を非対称で描き、広い余白を残した絵画的な構図が特徴です。作家物は「濁手」と呼ばれ美術品としての花瓶や皿、香炉などが作られています。濁し手には釉薬の性質上、作品の裏に銘はありません。一方で窯物は「錦手」と呼ばれ、伝統的製法による量産向きの食器が多くあり、裏には染付けで“柿右衛門”と銘があります。

柿右衛門窯の始まり

 1970年代に確立された柿右衛門窯ですが、実は今日の柿右衛門のような様式ではありませんでした。その頃は染付けを中心とした伊万里様式を元に、景徳鎮窯の図柄いわゆる中国絵画に影響を受けていました。初代柿右衛門は試行錯誤の末、赤絵の技に成功。ヨーロッパからの日本的な陶磁器のリクエストに応え、人気が広まったとされています。


酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん)

酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん)

江戸期の柿右衛門窯

 今日、私たちの使用する磁器は100円で売っているものから美術品まで幅広くあります。昭和に入り機械が導入され大量生産が始まり、安価で手に取りやすい価格帯の物が多く浸透してきました。では江戸時代当時はどういうシステムで流通していたのでしょうか。
 結論から言うと磁器に関しては庶民には手に入りにくい物だったと考えられます。天皇家や江戸幕府、大名家が使う献上品のみに絞って造られていたからです。(庶民が使う器などは民芸である土物の器が多かったと思われます。) 江戸時代の政治は藩が力を持ち、藩の元で生活がコントロールされていました。藩も資金確保のため独自で外交ルートをひらき、外貨獲得のために磁器を藩指導の下で製造させたり、また天皇家や幕府への献上品として生産されていました。
 初代柿右衛門から八代柿右衛門はこのうごめく藩の方針の元に花開きました。前述でも述べたとおり、外貨獲得のため鍋島藩主導で長崎の出島よりオランダや中国との外交が始まり、東インド会社を通じ1660年頃から本格的な輸出が始まったそうです。1720年頃は現代の名窯のマイセン窯が柿右衛門様式を模倣し白磁と色絵の技術を成功させました。しかし、その影響からか1750年頃になるとヨーロッパ諸国で模倣や模造が増え注文・輸出が減り柿右衛門窯は経営が困窮することとなりました。

後編へ続きます

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