2026.02.03
日本の色彩を変えた画家 黒田清輝
「何かが違う」
小学生だった頃、美術の教科書に掲載されていた黒田清輝の作品を初めて見たとき、そんな感覚を抱きました。
多くの人が、小・中学生の頃に『湖畔』や『舞妓』を目にしたことがあるのではないでしょうか。教科書には多くの日本人画家の作品が並んでいましたが、当時の私には、黒田の絵だけがどこか異質に映りました。
それまで日本の絵画で見慣れていた色とは明らかに違う、澄んだ光の存在。
法律家を志して海を渡った一人の青年が、なぜ筆を手に取り、日本の色彩そのものを塗り替える存在となったのか。その歩みを辿りながら、「近代洋画の父」と呼ばれる黒田清輝を見つめていきたいと思います。
法学徒から画家の道へ
黒田清輝は1866年、薩摩藩士の家に生まれました。5歳のとき、明治政府の高官となる伯父・黒田清綱の養子となり、将来を期待されながら高等教育を受けます。幼少期から漢学やフランス語を学び、自然と国家に仕えるエリートの道が用意されていました。
1884年、17歳で法律を学ぶためフランスへ留学します。しかし、約10年におよぶ留学生活の中で、彼の進む道は大きく変わります。1886年、パリに滞在していた日本人画家・山本芳翠らとの出会いをきっかけに、黒田は法律の道を離れ、画家として生きる決意を固めました。
異国の地で出会った芸術が、彼の人生を根底から変えた瞬間でした。

フランス留学で得た「光」を描く技法
黒田がフランスに滞在した時代は、絵画の価値観そのものが大きく揺れ動いていた時代でした。
それまで主流だった宗教画や歴史画は、重厚な茶褐色の色調で描かれることが多く、画家は室内のアトリエで制作するのが一般的でした。しかし19世紀後半になると、写真の発明やチューブ絵の具の普及によって、画家たちは屋外へと制作の場を広げていきます。
その中で生まれたのが、自然光のもとで対象を観察し、その瞬間の色や空気を捉えようとした印象派、そして外光派の表現です。
黒田はフランスでラファエル・コランに師事し、この外光派の技法を本格的に学びました。特に特徴的なのが、陰影表現への新しい試みです。従来の絵画では、影は褐色や黒で描かれることが多かったのに対し、黒田は紫色を積極的に取り入れ、光に満ちた画面の中に柔らかな陰影を生み出しました。この独特の色彩感覚から、彼の画風は「紫派」とも呼ばれるようになります。
帰国後、黒田が日本にもたらした変化は非常に大きなものでした。当時の洋画界では、暗い色調を基調とした「脂派」と呼ばれる画風が主流でしたが、黒田の明るく開放的な色彩は、それらを一気に塗り替える衝撃を与えました。
代表作『湖畔』では、フランスで学んだ光の表現を、日本特有の湿度を帯びた空気や日本人の肌の質感に合わせて再構築しています。外来の技法をそのまま持ち込むのではなく、日本の風土に適応させようとした点に、黒田の真骨頂があります。
子どもの頃に黒田の作品が鮮やかに見えた理由は、単に色が明るかったからではなく、異文化の中で掴み取った「光」を、日本の地に根付かせようとする強い情熱が、画面から溢れていたからなのかもしれません。
教育者として築いた日本洋画の基盤
黒田が教科書に必ず登場する理由は、優れた画家であっただけではありません。日本に西洋画教育の制度を確立した功績も、非常に大きなものです。
子爵であり貴族院議員でもあった黒田は、帰国後、東京美術学校(現在の東京藝術大学)に西洋画科を設立しました。また、白馬会を結成し、多くの若い画家を育成します。
さらに、日本で初めて本格的にヌードモデルを用いた写生教育を導入したことでも知られています。人体を科学的に観察し、正確に描くという考え方は、日本の近代美術教育に大きな転換をもたらしました。
黒田は、美術を単なる趣味や装飾ではなく、近代国家を支える文化の柱として位置づけようとしていたのです。

「芸術」としての絵画を目指した挑戦
19世紀末の西洋画壇では、自然を写し取る習作(エチュード)よりも、歴史や神話、寓意をもとに画家が構想した作品(タブロー)こそが、芸術として高く評価されていました。
この思想は、黒田が生涯を通して向き合い続けたテーマでもあります。
その試みは、『昔語り』や『智・感・情』といった作品に表れています。これらは単なる写実ではなく、人間の精神や象徴的な意味を描こうとする、野心的な構想画でした。
黒田は大規模な壁画構想にも挑戦しましたが、当時の日本社会では十分な理解や需要が追いつかず、理想としていた構想画が広く定着することはありませんでした。しかし、「目に見えない概念を絵画で表現する」という考え方は、その後の日本の画家たちが内面や抽象表現へ向かう重要な礎となりました。

日常を見つめる柔らかなまなざし
黒田の画業を語る際、理想的な構想画と並んで忘れてはならないのが、身近な風景や人物を瑞々しい感性で捉えた作品群です。
彼は、光の移ろいや対象への愛着を、驚くほど素直に画面に映し出しました。公的な理想を追求した構想画とは対照的に、こうした作品には、黒田自身の私的で温かな視線が息づいています。
弊社でお取り扱いした黒田清輝作品の中には《逗子の濵》があります。
黒田は1897年、箱根・芦ノ湖畔に滞在し、のちに妻となる照子夫人をモデルにした代表作《湖畔》を描きました。彼は制作のため、箱根や鎌倉などの郊外にしばしば滞在しており、《逗子の濵》もそうした時期に生まれた作品のひとつと考えられています。
穏やかに寄せる波や、海辺特有の湿度を帯びた空気感が静かに表現されており、日常の一瞬を丁寧にすくい取ろうとする黒田のまなざしが感じられます。こうした作品からは、彼が追い求めた「目に見えないものを描く」という姿勢が、特別な主題だけでなく、身近な風景の中にも息づいていたことが伝わってきます。
黒田清輝の作品は、現在も黒田記念館をはじめ、各地の美術館で鑑賞することができます。
もし彼の描いた光の世界に触れたいと思われたら、実際に作品の前に立ってみてはいかがでしょうか。
画面に満ちる静かな輝きの中に、日本の美術が大きく変わろうとした時代の息づかいを感じ取れるかもしれません。
画像出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)