作家・作品紹介

画一筋の人生 平野遼

闇があるから光がある、どこかで聞いたことがありそうな言葉ですね。ですが、心象をとらえる名手であり生涯を通して絵描きであり続けた平野遼の作品をじっと見つめているとそんな言葉を深く実感できます。

画一筋の人生 平野遼

少年期から青年期の苦労

昭和2年である1927年に生まれた平野遼は、3歳で母を、13歳で父を亡くして、現在であれば中学校に通うような年頃から徴用工として働き始めました。家庭環境も良かったとは言い難いものだったそうで、子供らしい遊びをしたことがないと述べたことがあると知り胸が痛みました。そういった環境も影響してか元来持って生まれたものか、内向的な性格となり、少年の頃から絵ばかりを描いて過ごされていたそうです…。こういった背景が画家・平野遼を生んだと思うと、なんだか複雑な気持ちがします。
戦後は絵画放浪と呼ばれる生活で、九州で似顔絵描き等をして、お金が貯まったら東京に行き、東京でも同じ様にお金を稼いで、どうにもならなくなったら九州に帰るといったことを繰り返していたそうです。東京駅に着くとすぐに上野の美術館に足を運んでいたというので、生活の中心というか志や興味のすべてが絵に向いていたのだと思われます。当時、上野の美術館で見た松本竣介や靉光の絵には色の鮮烈さと、独創的な表現に圧倒されたそうです。
時には家賃も払えずに電気をとめられてロウソク暮らしだったこともあったそうです。そんな中でもロウソクの灯りでデッサンをするばかりか、蝋画と呼ばれていた技法を偶然から思いつき発見し、自分の絵画技法に昇華させたというから驚きです。しかも、そこから制作された蝋画「やまびこ」が新制作派展で初入選し、画家として評価されていくことになりました。

画一筋の人生 平野遼

貫き続けた画家人生

昭和32年、30歳にして初の個展が開催されたのを皮切りに東京、名古屋、大阪といった各地で個展が催され画家としての評価が高まっていきました。ですが、自分の絵を追求し、ついには世間に認められ、注目を集めるような大家になっても、画壇や世間的地位には目もくれずに画業一筋の生き方を貫き続けました。画業における興味の中心は常に人間、特に自己の内面にあって出世や世間からの評判等には無関心でした。それ故に売絵ではなく「難しい」「わからない」とも言われる、じっと見つめ続けて、心で見て初めて解るような絵を生涯に渡って描かれています。絵を描くために生まれてきた、絵描きという修行者とも言われた平野遼は1992年に亡くなりました。その晩年も、病院から抜け出してまで、亡くなるギリギリまで絵を描いていたというから本当に凄い画家だったのだと改めて思わされました。

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