作家・作品紹介

数学と芸術──一見無縁に思えるこの二つの分野を、見事に融合させた芸術家がいます。マウリッツ・コルネリス・エッシャー（M. C. Escher）。だまし絵や幾何学模様を巧みに操り、世界中の人々を魅了し続けたオランダの版画家です。

彼は1898年、オランダのレーウヴァルデンに生まれました。ハールレムの建築装飾学校で建築を学んでいましたが、教授のすすめで版画の道へ転向。若き日にはイタリアを旅し、風景や建築を丹念に描いています。しかし1930年代以降は、「現実と非現実の境界」に関心を持つようになり、視覚的錯覚や無限構造といったテーマを追求するようになりました。

エッシャーの作品は、今なお数学者や科学者、建築家、デザイナーといった分野の専門家からも高い評価を得ています。それは、彼の作品が単なる芸術にとどまらず、論理や構造の美しさを視覚的に表現しているからでしょう。

“だまし絵”──代表作『滝』

彼の名を一躍有名にしたのが、いわゆる“だまし絵”と呼ばれる作品群です。たとえば、上っているはずの階段が巡って元の場所に戻ったり、流れ落ちた水がまた高い場所に戻るような構図。また、鳥や魚が無限に敷き詰められた模様（テセレーション）なども、見る者に不思議な感覚をもたらします。こうした構図は、現実には存在しえないのに、絵の中では自然に成立してしまう。そこに観る者は、論理のほころびと視覚の面白さを同時に味わうことになります。

代表作のひとつ《滝》（1961年）では、水が上から下へと何度も流れ落ち、最終的にはまた上部へ戻ってくるという“永遠の循環”が描かれています。この構図には、「不可能図形」として知られるペンローズの三角形が応用されており、目が欺かれると同時に、ある種の論理的な美しさを感じさせます。

エッシャーの作品が数学者たちから高く評価されるのは、彼が「数学的感覚を視覚で表現する」天才だったからです。とりわけ彼が関心を寄せていたのは、「無限」「対称性」「テセレーション（平面充填模様）」といった要素。専門的な数学教育は受けていませんでしたが、彼の表現は後にフラクタルや非ユークリッド幾何学といった数学的概念に近づき、科学の分野からも注目を集めました。

たとえば《昼と夜》では、画面の左が「昼」、右が「夜」となっており、同じ景色が明暗に分かれて中央で接しています。空には無数の鳥の模様が広がり、画面全体に対称性と変化のリズムが生まれています。こうした構成力が、エッシャーの創造性の高さを物語っています。

空想と観察を融合させたエッシャーの作品群

「どうすれば、こんな発想が生まれるのか？」と多くの人が驚かされますが、エッシャーの作品は空想だけで成り立っているわけではありません。彼は実際の建物や風景を何度もスケッチし、自然界のパターンや建築物の構造を徹底的に観察していました。その上で現実の要素を巧みに組み替え、想像の世界を構築していたのです。観察力と想像力をバランスよく融合させることで、彼の作品には“ありそうでない説得力”が宿っているのです。

エッシャーの影響は、美術の世界だけにとどまりません。映画『インセプション』では、彼の作品を思わせる階段構造が迷宮のように描かれていますし、『ドクター・ストレンジ』にも空間が歪むエッシャー的な演出が取り入れられています。さらに、数学の教科書や建築設計、ポスターやアパレルなど、日常のさまざまな場面で彼のエッセンスが生かされています。世代や国を超えて、エッシャーの世界は今なお新鮮な驚きをもって受け入れられているのです。

エッシャーの影響と普遍的な魅力

こうしたエッシャーの魅力を整理すると、次のようにまとめられます。視覚的には、脳を揺さぶるような不思議な構図を描き出し、数学的には、無限や対称といった抽象概念を具体的な絵に変換する力があります。そして、現実の観察に根ざした発想によって、単なる幻想ではないリアリティが加わります。さらには、美術・科学・教育・映画といった多様な分野に影響を与え続けるという、普遍的な力を持っているのです。

マウリッツ・エッシャーは、視覚と論理、現実と幻想を自在に行き来した希有な芸術家でした。彼の作品には、ただ見るだけでは終わらない“奥行き”があります。眺めれば眺めるほど深まり、知的な驚きと美しさをもって応えてくれるのです。
近年では、豊田市美術館やハウステンボス美術館などで開催されたエッシャー展が大きな反響を呼び、多くの来場者を魅了しました。現在、国内で開催中の展覧会は確認されていませんが、今後も各地でエッシャーの世界を紹介する企画が展開されていくことでしょう。視覚的にも知的にも刺激あふれる彼の作品を、ぜひ会場で体感してみてください。