2026.08.04
糸が記憶をつないでいく 塩田千春が描く存在のかたち
塩田千春の作品の特徴、それは空間を埋め尽くす大量の糸です。
赤や黒の糸が天井から床まで張り巡らされ、その中に古い鍵や椅子、ベッド、靴、スーツケースなどが取り込まれています。一本の糸は細く、簡単に切れてしまいそうです。それでも何千、何万本と重なると、人が中へ入れるほど大きな空間をつくり上げます。
糸が表しているのは、目には見えない人と人とのつながりや、長い時間の中で積み重なった記憶です。作品に使われる古い品々にも、かつて誰かが触れ、使っていた時間が残っています。
塩田千春は、そうした「人がいなくなった後にも残るもの」を、糸と日用品によって見える形にしてきました。

18万本の鍵をつないだ「掌の鍵」
塩田の代表作として知られるのが、2015年のヴェネチア・ビエンナーレ日本館で発表された「掌の鍵」です。
会場には、世界中から集められた約18万本の古い鍵と赤い糸、2艘の木造船が置かれました。天井から伸びる赤い糸には無数の鍵が結ばれ、その一部は床や船の上にも積み重ねられています。
鍵は、家や大切な物を守るために使われます。同時に、長年持ち歩くうちに、持ち主の生活や思い出を背負っていく物でもあります。
塩田は、そんな鍵を世界中から募り、赤い糸で結びました。2艘の船は、鍵を受け止める掌のようにも見えます。誰かが手放した記憶を受け取り、次の世代へ運んでいく。大きな展示空間を使いながら、そこで描かれているのは、私たち一人ひとりの小さな記憶なのです。

糸と日用品が残す、人の気配
塩田の作品に登場するのは、鍵だけではありません。ベッド、椅子、窓、衣服、靴、手紙、旅行鞄など、誰の家にもありそうな物が繰り返し使われています。
靴には、履いていた人の歩いた時間があります。ベッドには、眠った人の体温や夢の記憶があります。使い古されたスーツケースからは、持ち主がどこから来て、どこへ向かったのかを想像したくなります。
塩田は、こうした物を赤や黒の糸で包み込みます。人の姿はありませんが、そこに誰かがいたことは伝わってくる。その不思議な感覚が、塩田作品の大きな特徴です。
赤い糸は、血管や血縁、人と人との結びつきを思わせます。黒い糸は、夜や不安、記憶の奥に沈んだものにも見えます。ただし、色の意味を一つに決める必要はありません。見る人自身の経験によって、糸の見え方も変わっていくのです。

絵を描く代わりに、空間へ線を引く
塩田は、もともと画家を目指していました。しかし、何を描いても誰かの作品に似ているように思え、絵画だけでは自分の感覚を表せないと悩むようになります。
そこで使い始めたのが糸でした。
キャンバスに線を描く代わりに、建物の壁や天井へ糸を張る。すると、線は平面から飛び出し、人が中へ入れる空間になります。塩田のインスタレーションは、糸によって空中に描かれた巨大な絵とも言えるでしょう。
作品は展示場所に合わせて現地で制作されます。同じ題名の作品でも、建物の広さや天井の高さが違えば、糸の張り方も変わります。そして展覧会が終われば、糸は切られ、作品は解体されます。
永久に同じ形で残らないことも、塩田の作品が扱う記憶や人の命と重なっています。

闘病を経て深まった生と死への問い
塩田は2005年に卵巣がんを患い、2017年には再発しました。手術と抗がん剤治療を受けながら、自分の体と魂について考え続けたといいます。
体の一部が治療によって失われても、自分は同じ自分なのか。命が終わったとき、感情や記憶はどこへ行くのか。そうした切実な問いは、「Cell(細胞)」シリーズや身体を題材にした作品へとつながりました。
2019年に森美術館で開かれた「塩田千春展:魂がふるえる」は、闘病を経て準備された展覧会でもあります。死を遠い出来事として扱うのではなく、自分にもいつ訪れるか分からない現実として見つめたからこそ、作品の中には生きることへの強い思いも残っています。

糸から舞台へ広がる表現
塩田の活動は、糸を使ったインスタレーションだけにとどまりません。ドローイング、版画、彫刻、写真、映像などにも取り組み、劇場では演劇やオペラの舞台美術も手がけています。
舞台では、糸や巨大な構造物が出演者の動きと組み合わされ、時間とともに変化する空間をつくります。ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」や「神々の黄昏」、細川俊夫の「松風」、モーツァルトの「イドメネオ」など、数多くの舞台制作に参加してきました。
また、同じくベルリンを拠点に活動するイケムラレイコとの共同作品や対話集も発表しています。
展覧会「塩田千春 つながる私(アイ)」では「糸」にちなんだ揖保乃糸とのコラボ商品も販売されました。作品制作の考え方は、美術館の外へも広がっているのです。
2026年9月からは、2019年に東京で始まった大規模個展「魂がふるえる」が、カナダのモントリオール美術館で開催されます。30年以上にわたる活動をたどるこの展覧会には、代表的な糸のインスタレーションだけでなく、彫刻や映像、舞台美術の資料なども集められる予定です。
塩田千春の作品が世界中で受け入れられているのは、糸を大量に使った見た目の迫力だけが理由ではありません。
大切な人との別れ、忘れたくない記憶、自分がここに生きているという感覚。誰もが一度は考えることを、鍵や靴、ベッドといった身近な物を使って見せてくれるからです。
細い糸を目で追っていくと、その先には誰かの記憶があります。そして気づけば、自分自身の記憶も作品の中へつながっているのです。