作家・作品紹介

メキシコ帰りの洋画家 北川民次

芸術の都パリを目指して海を渡った画家はたくさんいましたが、当時としては少し珍しいメキシコの空気を吸収した洋画家がいました。今回は北川民次をご紹介いたします。

メキシコ帰りの洋画家 北川民次

早々に海外へ

北川民次は1894年(明治27年)、静岡県に生まれました。
早稲田大学商学部予科に進学すると、予科で上級だった宮崎省吾に手ほどきをうけ、1913年に米沢出身の画家、椿貞雄と出会い絵を描きはじめました。
大学を中退した民治はカリフォルニア在住の伯父を頼って渡米、ニューヨークの美術研究所に入り、1921年に卒業するまで苦学を重ね、主に舞台美術家として生計をたてていました。


メキシコ帰りの洋画家 北川民次

後の指針となるメキシコ時代

ニューヨークでの日々に疲弊した民次は、キューバを放浪、1923年にメキシコに行き着きます。アメリカでは画家と言うよりは労働者のように働いていましたが、メキシコで本格的に画家としての活動をスタートさせます。ここで出会ったモチーフが、終生の代表作となる“バッタ”です。メキシコにおけるバッタは種族の祖先として見立てられ、守り神として奉られる存在でした。ある種メキシコの象徴のようなバッタに魅せられ、デフォルメによる生命感あふれる作風で生涯にわたり描き続けました。
メキシコでの民次は児童美術教育にも携わります。野外美術学校の運動に加わり、1931年にはタスコに野外美術学校を開き、校長となりました。子供たちからも絵画の本質を学び、自身の新しい表現の方向性をさぐっていきます。1933年には中南米を旅していた藤田嗣治が民次の家を訪ね、交流を深めるなど、民次はメキシコで非常に密度の濃い時間を過ごし、15年間滞在しました。


メキシコ帰りの洋画家 北川民次

壁画への情熱

帰国後、妻の実家がある愛知県瀬戸市で過ごした民治が、情熱を注いだものの一つに壁画制作が挙げられます。絵画は文字が読めない人にも見てもらえるもの。さらに壁画は公共の場にあるもので、誰もがいつでも見ることのできるもの。メキシコで壁画制作に携わった経験から、メキシコ近代壁画の画面構成法を応用した壁画は、現在でも愛知県を中心に多く観られ、人々に親しまれています。また日本の社会問題にも目を向け思想的な絵画を制作、当時の画家としては異色ではあったようですが、現代の我々に身近に感じるテーマの作品も多く発表しました。

亡くなる3年前にはメキシコ政府から外国人に対する最高位の勲章であるアギラ・アステカ勲章を授与された、北川民次。児童美術教育においては、世界的な先駆者と評価されており、常に世界中に次世代へのメッセージを残し続けた作家でした。

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