作家・作品紹介

22歳で「槐多」になった──夭折の洋画家・詩人「村山槐多」

その生涯の中で画家として活動した期間は5年足らず、残した作品の総数は200点ほど。
22歳で亡くなるほど短い時間の中で、「この人にしか出せない温度」を絵と言葉に焼き付けた画家、村山槐多。
大正という時代の空気をまといながら、いま見ても生々しく、思わず目が止まる強さがあります。
1896年生まれ、1919年2月20日没。駆け抜けるような生でした。


22歳で「槐多」になった──夭折の洋画家・詩人「村山槐多」

画家の道を開いた人たち

槐多の背中を押したのは、従兄の画家・版画家の山本鼎でした。上京の縁をつくり、槐多は画家の小杉未醒(のちの放庵)の邸に寄宿し、日本美術院の研究生として制作を始めます。
この頃、槐多は二科展に作品を出し、うち1点が横山大観に買い取られ、「庭園の少女」が雑誌みづゑに掲載されたと伝えられます。若い才能が早くも認められた瞬間でした。

槐多の周囲には、絵や生き方に強く影響を与えた著名人がいます。
高村光太郎 槐多を悼み「強くて悲しい火だるま槐多」と詩に詠んだ
・柳瀬正夢 再興日本美術院の洋画部で、槐多と並んで表現主義的な潮流を担った仲間
・森鷗外 槐多の命名に関わったとも伝わり、同時代の文化圏の広さを感じさせる

短い生であるはずなのに、こうした人物が並ぶのは、それだけ槐多が周囲の中心で燃えていたからでしょう。


22歳で「槐多」になった──夭折の洋画家・詩人「村山槐多」

絵が物語になる「乞食と女とお玉さん」

槐多の終盤は、絵の中で人生が物語になっていきます。1916年に小杉邸を離れて独居したのち、根津の下宿へ移った頃から、モデルのお玉さんへの恋慕に悩むようになっていきます。

そして象徴的なのが、「乞食と女(令嬢と乞食)」です。乞食は槐多自身、着飾った着物の女性はお玉さんがモデルとされ、槐多の内側がそのまま一枚の場面になります。
槐多は絵に恋の記録を描いたのではなく、自分の弱さや渇きまで構図にしてしまいました。槐多の人物像が忘れがたいのは、上手さより先に生身の感情が前に出てくるからだと思います。


22歳で「槐多」になった──夭折の洋画家・詩人「村山槐多」

関根正二と比べて見える「短い生の密度」

槐多(1896–1919)と同じ年に20代前半で亡くなった洋画家に、関根正二(1899–1919)がいます。関根は二科展で評価されながらも、結核の症状に加えてスペインかぜで悪化し、1919年6月に20歳で没したとされます。
槐多もまた、1918年に喀血し結核性肺炎の診断を受け、1919年に流行性感冒(スペイン風邪)に罹患し、みぞれ混じりの嵐の夜に外へ飛び出して倒れ、1919年2月20日に22歳で亡くなったと記されています。

ただ、同じ夭折でも残る絵の感覚は違います。関根が内側に沈む痛みを抱えるなら、槐多は感情が外へ噴き出す。似ているのは年齢ではなく、短い時間に表現を凝縮した密度のほうでしょう。

槐多の没後、友人たちによって詩や戯曲がまとめられ、「槐多の歌へる」が刊行されました。絵だけでなく言葉でも燃えた人だった、という像が見えてきます。
「強くて悲しい火だるま」という言葉がいまも槐多に貼りつくのは、作品が「若い才能」ではなく、燃え尽きるまでの生そのものを、見る側に突きつけてくるからかもしれません。

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