作家・作品紹介

向井潤吉 ~生涯古い民家の絵を描き続けた作家~

向井潤吉は1901年に京都府京都市に長男として生まれました。
向井が物心ついた頃には、家で10人近い職人を雇い輸出向けの刺繍屏風や衝立を製造していたそうです。
1914年4月、父と日本画を学ぶことを約束し京都市立美術工芸学校予科に入学しますが、油彩画に強い興味を抱き、2年後には父の反対を押し切り中退します。
その後は家業を手伝いながら、という条件で関西美術院に入り、4年間学びました。
1919年には二科会第6回展に初入選。
翌年家に無断で上京し、半年ほど新聞配達で働きながら川端画学校に通いますが、年内には再び京都に戻り生活していたようです。

フランス留学と戦争画

1927年、25歳で単身渡欧し、同時代の美術の潮流にふれるとともに、ルーブル美術館での古典絵画の摸写を重ねていき、油彩画の技法を研究しました。
滞仏中は、午前中はルーブル美術館で模写、午後は自由制作、夜はアカデミー・ド・ラ・ショーミエールで素描を行うという事が日課だったそうです。
フランスから帰国後の戦時中には従軍画家として中国、フィリピン、ビルマに赴き、作戦記録画の制作に従事します。
戦地の真っ只中で、向井は現地の自然風景や、休息する兵士達の姿などをたくさんスケッチに残しました。
1930年 帰国、同年に浦宗静枝と結婚します。
1945年以降の第二次世界大戦終結後、向井の描いた戦争画4点『四月九日の記録(バタアン半島総攻撃)』、『マユ山壁を衝く』、『バリッドスロン殲滅戦』、『水上部隊ミートキイナの奮戦』は連合国軍最高司令官総司令部に軍国主義的なものであるとして没収され、他の戦争画とともにアメリカ合衆国に持ち出されました。
1970年に他の戦争画とともに無期限貸与という形で日本に返還され、今現在は東京国立近代美術館に収蔵されています。


「民家の向井」 と呼ばれるまで

戦争末期は爆撃のため、しばしば防空壕に逃れる生活をしていました。
そんな過酷な生活の中、ふと手にとった図録から民家の美しさに気付いたそうです。
そして戦火の中で失われようとする美しいものを絵に残したい、後世に伝えていきたいという思いを強くしていきました。
終戦後の1945年11月には行動美術協会を設立しました。
同年の秋、新潟県川口村で取材した作品「雨」を制作し、それ以後は生涯の主題として草屋根の民家を描き続けます。
ですが、初期の頃は労働や生活の現場を画面に取り込んだ作風を見せ、いかにも向井らしい民家作品としての作風が確立したのは昭和30年代に入ってからでした。
そこから、「民家の向井」と呼ばれるまで画家としての頭角を現していったのです。


向井潤吉アトリエ館

向井潤吉アトリエ館は、向井とその家族が1996年より自宅兼アトリエとして利用してきた建物を美術館として改装したものです。
そのため自作の油彩画やデッサンなど660余点を世田谷区に寄贈されました。
アトリエ館の付近は以前、雑木林があり自然が多かったのですが、今ではその面影もこのアトリエ館と隣接する学校の一部にしか残されていません。
この残り少ない自然の保護と文化新興に役立ちたい、という向井の希望を受けて1993年7月に世田谷美術館の分館として向井潤吉アトリエ館は開館されたのです。
雑木の繁る、緑豊かな庭を眺めながら、民家のある風景を描いた、向井芸術の足跡を辿ることができる美術館となっているそうです。

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