2025.11.11
音楽が聞こえてくる絵画──織田広比古
静かな夜の街角で、月明かりに照らされた女性がそっと楽器を奏でている。
その光景から音楽が立ちのぼるような感覚を与えてくれる──それが洋画家・織田広比古(おだ・ひろひこ)の世界です。
彼の絵には、見る者を包み込むようなやさしさと、どこか懐かしい詩情があります。
広比古は1953年、東京に生まれました。父は叙情派洋画家として知られる織田廣喜、母リラも画家という芸術一家の長男として育ちます。
東京造形大学を卒業後、銀座や渋谷の画廊で個展を開催。1983年には日伯美術展で「日伯賞」を、1988年には二科展で「パリ賞」を受賞するなど、若くして確かな実績を積み上げます。
その後、芸術の都パリに拠点を移し、国際的な活動を展開しましたが、2009年、わずか56歳で現地にて急逝。
豊かな感性を湛えた画業は、今なお多くのファンの記憶に残っています。

父の影響と、そこから生まれた独自の世界
父・織田廣喜は、戦後日本の洋画壇を代表する叙情派画家のひとりです。淡い色彩とにじむような筆致で、哀しみや孤独の中にも希望を感じさせる女性像を描き続けました。
広比古もまた人物画を主題としましたが、その筆づかいはより明快で、光と空気を感じさせる現代的なタッチが特徴です。父の作品に見られる“静かな憂い”に対し、広比古の絵には“生きる瞬間の明るさ”が宿っています。
真っ白な肌に差す紅、月明かりに照らされる横顔、指先に宿る音の気配──それらは、父の叙情性を受け継ぎながらも、より自由で開放的な感情を描いています。
芸術一家に生まれ、絵が日常にある環境で育ったこと。その中で「父と同じであってはならない」という意識が、彼を独自の詩的世界へと導いたのかもしれません。
楽器を奏でる女性たち──音と時間を描く画家
織田広比古の作品には、しばしば楽器を手にした女性たちが登場します。ヴァイオリンやピアノ、フルート──音楽をテーマにしたモチーフは、彼の絵を一層ドラマチックにしています。
背景には巴里の街並み、夜空に浮かぶ三日月、静かな水辺。それらが穏やかな宵闇の色調でまとめられ、まるで音楽が画面の中から静かに流れ出すようです。光の滲みや柔らかな影は、油彩でありながらパステルのような軽やかさを感じさせ、見る人の心をほぐします。
こうした詩情性は、彼が影響を受けたとされる近代ヨーロッパの巨匠──ルノワール、シャガール、ボナールといった画家たちにも通じるものがあります。
とくに、夢と現実のはざまを描いたシャガールのように、広比古の絵もまた「心の中の風景」を描いているといえるでしょう。
限られた作品が語り続けるもの
その詩的で幻想的な世界観から、織田広比古の作品は没後から今に至ってもコレクターから高く評価され続けています。
生涯で残された作品数は決して多くありません。だからこそ、一点一点に込められた感情の濃さや構図の完成度が際立ちます。キャンバスに描かれた女性たちは、いまも静かに楽器を奏でながら、見る人それぞれの心の中で音楽を響かせているのです。
彼の絵には、時代や流行を超えて“美”の本質を見つめるまなざしがあります。
月明かり、音の余韻、そして人のぬくもり。
それらが織りなす織田広比古の世界は、観るたびに新しい感情を呼び起こしてくれる──そんな稀有な魅力を放っています。