作家・作品紹介

江戸期の輸入美術品

美術品、骨董品の伝播力は俗に質より量と言われることがあるようですが、数が少ないからといって、その影響力は馬鹿には出来ません。むしろ現在は数が少ないからこそ、希少価値が増して需要が大きくなる傾向もみられ、これは古来の日本にも当てはまるという研究結果も出ているようです。

今回はその中から江戸時代の日本における輸入美術品についてお話したいと思います。

江戸期の輸入美術品

中国の清朝陶器を受けて作られた「鍋島焼」

18世紀から19世紀を中心に、日本の陶器生産のお手本となっていたのが、中国の清朝陶器であったことは周知の事実となっています。実際に膨大な数の清朝陶器が当時日本に輸入されていました。
徳川慶喜が駐日英国外交官のアルジャーン・ミッドフォードに送ったという、後の有名なディビットコレクションとなる「粉彩花鳥壷」や、沖縄の首里城跡から出土した「康熙〜雍正年間の官窯陶器」。この出土した官窯陶器の存在は清朝陶器が琉球へもたらされていた事を明らかにしており、それらは薩摩藩経由で日本本土へ運ばれていたようです。
清朝の官窯陶器は江戸時代には既に贈答や献上品にされる物でありました。

それを受けてか、同時代の日本では佐賀藩が献上用に「鍋島焼」を作らせており、その染付などの技法は正に清朝の豆彩と全く共通の色絵輪郭線が用いられております。
また清朝官窯に匹敵する程の豪華絢爛な日本の陶器といえば、薩摩の地で生み出された「薩摩金襴手」があげられます。これは幕末から明治時代の初期に行われた万国博覧会に出品され、海外で大好評となりその後盛んに作られました。面白いことに薩摩金襴手が海外で好評を博した後は、京都でもそれを手本とした「京薩摩」が盛んに製作されるようになりました。


江戸期の輸入美術品

地方から京都へ影響した「薩摩金襴手」

当時の日本は一般的に都である京都と地方では文化的視点から見ると格段の差があるはずで、都の文化技法が地方に影響を与える事はあっても、逆に地方で生まれた文化技法が都へ影響を及ぼす事は非常に不思議な現象で珍しいことだったのではないかと思います。
これは何故かと考えた時、先にも記述した様に薩摩藩という場所が、琉球を通して清朝陶器をより早く入手出来る立場にあり、当時の最先端は中国により近い場所だったと考えても可笑しくないのではないでしょうか。

嘉慶年間(1796〜1820年)以降、国の動乱により官窯技術が低下する様になった清朝から日本に良質な陶磁器が輸入されなくなっていきます。そこで自国による清朝陶器を手本とした鍋島焼や薩摩、伊万里陶器の生産が活発になり現代に繋がりました。

現在では中国陶器の人気は不動であるのは勿論のこと、日本の明治時代の陶器、金工作品も世界的に再注目されております。

弊社でも数多くの作品をお取扱させて頂いておりますが、毎度その作りの素晴らしさに圧倒され、只々溜息が出るばかりです。お持ちの作品でこの様な素晴らしい作品がございましたら、是非一度拝見させて頂きたく思います。

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