作家・作品紹介

現在(いま)を生きた女流画家 堀文子

あなたは重大なことなどは人に相談しますか?それとも自分で決めますか?今回は人一倍芯が強く、エネルギーに満ち溢れた女流画家堀文子さんをご紹介いたします。

堀文子さんは1918年東京市麹町区平河町(現:東京都千代田区)に生まれました。5歳頃に関東大震災を経験。後の黒柳徹子さんとの対談で「周りが一瞬にして焼け野原になる光景を目の当たりにし、いざとなったら人間は一人だ、誰も頼れない、“世の末”を見た」と語っています。この頃から人に頼るのが嫌いな性格になり、何をするにも重大なことがあっても自分で決めて行動するようになりました。また、同年に兄と弟が戦死し、戦火で自宅焼失。幼少期のつらい経験から、自立し、自分の生涯を自分で設計すると決め父親を説得。「自由が欲しくて絵を志した」と女子美術専門学校(現:女子美術大学)へ進みます。女子美在学中に、再興院展で女流画家の小倉遊亀『浴女』に感銘を受け、女流画家を志します。現代と比べると女性が自立して働く事は難しい時代ですが、当時活躍していた小倉遊亀に勇気づけられたことと思います。


現在(いま)を生きた女流画家 堀文子

「花の画家」

卒業後、22歳で第2回新美術人協会展に出品し、初入選。彼女の作風は、スケッチをベースに、自分がその時感じたものを描き留める作業として生命力あふれる草花を描きました。彼女のアトリエには生きた日々のかけがえのない刻印として何百冊ものスケッチ帳が保管されているそうです。彼女の描いた絵の優しい色遣いと繊細な筆致はどこか暖かい気持ちになります。


現在(いま)を生きた女流画家 堀文子

転機

若くして日本画家として評価を高めた堀文子ですが、28歳の時に転機が訪れます。生涯独身で自分の仕事を貫こうと考えていましたが、兄弟の戦死に遭い自分ばかりが自由を求めることに疑問を感じ、外交官の箕輪三郎と結婚しました。しかし彼女が43歳の時に死別。精神的にもまいってしまい、3年ほどエジプトをはじめヨーロッパ、アメリカ、メキシコと放浪します。帰国後、カルチャーショックから抜けだせずしばらく絵が描けないでいたそうです。西洋文化の強烈さに打ちのめされた彼女は同時に日本の風土に改めて注目をします。


現在(いま)を生きた女流画家 堀文子

とどまることを知らない

東京に住んでいては自分が思う日本の風土が描けないと、45歳で自然豊かな大磯に移るも、同じ環境に居ると慣れてしまった自身の生活に嫌気が差し、軽井沢に別荘を持ち、常に感性を磨き新しいチャレンジをします。70歳では一人でイタリアに5年も暮らし、81歳の時には青い芥子を求めて標高4500mの山にも挑戦しました。84歳のインタビューでは「若い頃よりずっと自由になってきています。その意味で、ますます本気になってきました。朽ちる直前に、姿を現したがっているような気がし、生き生きしてきたなぁと実感しております」と語っておられました。

83歳のとき自らの病気をきっかけに、生命力をテーマに制作。顕微鏡で見る微生物の美しさと生命の根源に魅かれ、その神秘を表現し大変話題を呼びました。

92歳頃の彼女が執筆したエッセイ集『ひとりで生きる』では「群れない、慣れない、頼らない。これが私のモットーです。」と語っており、画家としてだけではなく生き方も多くの人々の心に響きました。

そんな彼女も2019年、100歳で永眠。

100年もの時代を生き抜いた、彼女にしか表現できない作品。ありがたい事に弊社でも多くのお問い合わせをいただいております。堀文子作品のお持ちの方はぜひご相談いただけると嬉しく思います。

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